2013年4月25日 (木曜日)

山手西洋館巡り

横浜山手には大正末期から昭和初期に建てられた数々の洋館があり、横浜の観光定番コースとなっている。著名な建築家が手がけた洋館はそれぞれ味わい深い建造物であり所有者の往時の生活ぶりの一端を見ることができなんとも興味深い。(1304)

港の見える丘公園の近くにある「山手111番館」(大正15=1926年建築/アメリカJ.Eラフィン氏住宅)はスパニッシュスタイルの赤瓦と白い壁が美しい。⇒次の画像Yamate0345
②山手111番館から港の見える丘公園方向右側にある「横浜市イギリス館」(昭和12=1937年建築/英国総領事公邸)は近代主義を基調としたモダンな形と伝統を融合した重厚な美しさをみせる。⇒次の画像
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③外人墓地前を左に進むと元町公園前にある「山手234番館」(昭和2=1927年建築)は以前外国人共同住宅で中央の玄関を挟み4つの同一形式の住戸を持つ横に長い建物である。次の画像
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④元町公園内の端にある「エリスマン邸」(昭和元=1926年建築/エリスマン氏私邸)は白と緑を基調とした壁、外観からはどこかレストラン的な雰囲気を醸し出すお洒落な建物である。Yamate0420
⑤エリスマン邸のすぐ隣にある「ベーリック・ホール」(昭和5=1930年建築/B.Rベーリック氏私邸)は鉄門と庭園をもつスパニッシュスタイルを基調とした戦前の西洋館のとして最大規模の価値ある建物である。⇒次の画像Yamate0435
⑥山手公園内にあるの「山手68番館」(昭和9=1934年建築/東洋バブコックの社員CFフランコ住宅/現在公園事務所)は白を基調としたバンガロースタイルの建物である。Yamate0477
⑦美しい山手イタリア山庭園内にある「外交官の家」(明治43=1910年建築/外交官・内田定槌氏私邸)は木造2階建、塔屋付でアメリカン・ヴィクトリア様式を基本としている建物である。
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⑧外交官の家の下方にある「ブラフ18番館」(大正末期建築/外国人住宅/カトリック山手教会の司祭館)はベイウィンド・上げ下げ窓・鎧戸・サンルームなどいかにも外国住宅らしいモダンな建物である。Yamate0525

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2012年11月30日 (金曜日)

旧細川刑部邸

熊本市中央区古京町(熊本城内三の丸)に全国有数の上級武家屋敷としての格式を有する「旧細川刑部邸」はある。細川家三代忠利公の弟興孝が刑部少輔に任じられて興した。広々とした庭園を備えた建坪300坪(900㎡)の大きな屋敷である。物見窓と潜り戸をつけた典型的な大身武家の門「長屋門」(左側に鉄砲蔵がある)を潜ると唐破風屋根に弐台付の正玄関の「御玄関」、お客間から入側造りの「表御書院」、二階建ての「春松閣」、別棟に書斎茶室「観川亭」や「御宝蔵」を備えている。その他「化粧の間」、「御膳の間」、「御役納戸」、「御台所」、「御湯殿」など30近い部屋がある。いかにも大名細川家らしい住まい暮らしの凄さ豊かさを感じ見た思いである。(1211)Hosokawatei2038Hosokawatei2035Hosokawatei1995Hosokawatei1996Hosokawatei1997Hosokawatei2003

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2012年11月27日 (火曜日)

夏目漱石坪井旧居

熊本市内坪井に漱石夫妻が在熊中、この5番目の旧居が「一番いい家」と語っている「坪井旧居」がある。明治29年、漱石は五高の英語教師として熊本に赴任。熊本在住4年3ヶ月の間に6回転居する中、この家は5番目の家で一番長く暮らしたところである。敷地は1434㎡建坪は232㎡の広さである。旧居全体が記念館として漱石直筆の原稿やレプリカ原稿、五高時代の写真などが展示され、和室では漱石や猫のからくり人形が置かれている。邸外には句碑や、長女筆子が産湯を使った井戸、寺田虎彦ゆかりの馬丁小屋がある。広い庭にある樹木は四季ごとの彩を魅せる。金峰山、小天温泉、阿蘇など熊本の旅体験がこの旧居から数々の作品(草枕、二百十日)を著する素材、源となっているのか。いずれにしてもここには漱石の世界が凝縮されている。(1211)Natsume_kyukyo2114Natsume_kyukyo2116Natsume_kyukyo2123Natsume_kyukyo2132Natsume_kyukyo2133Natsume_kyukyo2115

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2011年12月 4日 (日曜日)

小泉八雲熊本旧居

旅地は学びの泉であり、師である!!

熊本市の繁華街(手取本町)という喧騒の中に静かに佇む小泉八雲(ラフカディオ・ハーン )の住まい。明治時代、第五高等中学校(現在の熊本大学)の英語教師として熊本に赴任した際、最初の一年を過ごした住居である。八雲が当事礼拝していた神棚や、八雲の軌跡を記したパネルや作品が展示されていた。ここは平成7年に復元された。(1111)Koizumiyakumo0694 Koizumiyakumo0695 Koizumiyakumo0698 Koizumiyakumo0703 Koizumiyakumo0706 Koizumiyakumo0710 Koizumiyakumo0715 Koizumiyakumo0699

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2011年9月29日 (木曜日)

清水家の長屋門

旅は足で考え手で思うことである!!

上溝南小学校前にある清水家の長屋門は市の登録文化財になっている。旧主屋・長屋門とも建築時期は19世紀中頃と推定、構造は農家長屋門で桁行65尺(約20メートル)の長大なもので堂々たる主屋に相応しい造りとなっている。主屋には入れないが、上層農家に特有の6間取りと呼ばれる大型の造りである。前面に二階を設け、屋根は土間側を兜造としていて、広間も三つの大きな炉が切られているということ。おそらく養蚕のために計画されたもので当地の養蚕の歴史の観る上でも貴重な建物のようである。(1109)Shimizuke_nagayamon0444 Shimizuke_nagayamon0443 Shimizuke_nagayamon0438 Shimizuke_nagayamon0440 Shimizuke_nagayamon0442 Shimizuke_nagayamon0442b Shimizuke_nagayamon0439 Shimizuke_nagayamon0441

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2011年7月20日 (水曜日)

旧北村家と旧清宮家住宅(日本民家園)

あちこち旅をしまわっても、自分から逃げることはできない!!

民家園内「神奈川の村」エリアにある北村家住宅は貞亨4年(1687)秦野に建てられた寄棟造り三間間取りの貴重な民家で国指定重要文化財となっている。正面の格子窓、居間部分の押し板や竹すのこ床と古い特色をもつ民家である。もうひとつの清宮家住宅は17世紀後期に多摩区登戸に建てられていた民家で、家の正面以外の三方は土壁で塞がれ、格子窓を土間と床上境に設けるなどやや閉鎖的な造りの民家であるが、土間上部の小屋梁は曲材を用いる技巧を凝らしている。(1005) (ヘミングウェイの言葉)Kitammura3072 Kitammura3073 Kitammura3074 Kiyomiya3078 Kiyomiya3077 Kiyomiya3080

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2011年7月12日 (火曜日)

旧作田家住宅(日本民家園)

旅人よ、道はない。歩くことで道は出来る!!

民家園内の関東の村のエリアには三軒の古民家があり、その一つが国指定重要文化財となっている作田家住宅である。ここはもともと九十九里浜引き網漁の網本の家(17世紀後期の建築)で九十九里町から移築されたもの。構造は棟を別にする分棟型民家で、棟の間には大きな丸太を2つに割って作った雨どいが設けられており、居間の梁には松の曲材を巧に組み合わせ作られている。(1005) 「アントニオ・マチャドのことば」Sakutakejyutaku3055 Sakutakejyutaku3056 Sakutakejyutaku3057 Sakutakejyutaku3058 Sakutakejyutaku3059 Sakutakejyutaku3060 Sakutakejyutaku3061

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2011年7月11日 (月曜日)

旧山下家住宅(日本民家園 )

旅とは建築文化と美に触れることである!!

川崎市の小川町に観光料亭として利用されていたものを再建した飛騨白川郷の合掌造りの住宅。建てられたのは19世紀前期と見られる。建物区分は農家、茅葺である。二階建てで典型的な合掌造りの特徴が覗える。一階は蕎麦屋なっているが二階には生活用具類が収集・展示してあり往時の生活ぶり見ることができる。(1005) Yamashitakejyutaku3047 Yamashitakejyutaku3053 Yamashitakejyutaku3052 Yamashitakejyutaku3048 Yamashitakejyutaku3050 Yamashitakejyutaku3051

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2011年6月26日 (日曜日)

都筑民家園 旧長沢家住宅

旅とは人の現実逃避的要素を含む自由な移動行為である!!

長沢家は、都筑郡牛久保村にあった旧家で、江戸時代の一時期、村方三役の名主役、組頭を勤めていた。「旧長沢家住宅」は主屋(木造平屋建/寄棟・茅葺で148㎡)と馬屋(木造平屋建/寄棟・茅葺で29㎡)からなり、その建築年代は18世紀中頃で柱の一部のチョウナ仕上げや土間境の柱が大黒柱となっていないなどの古い形式を残していることから横浜の残民家の中ではかなり古い部類に入る。主屋には奥の間奥、広間、土間・広間境、土間からなり、馬屋とは廊下で繋がれている。江戸時代の職人の手跡が各所に残り、長きにわたり多くの人が行き来した空気が今も流れている。長沢家の左側には同じ手法、仕上げで落ち着き感のある茶室が建てられている。(1106)Nagasawake5057 Nagasawake5058 Nagasawake0229 Nagasawake0228 Nagasawake5060 Nagasawake5068 Nagasawake0227 Nagasawake5067

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2010年9月17日 (金曜日)

旧白洲邸=武相荘

旅とは自学主義の行動表現である!!

鶴川から平和台入口で下車、左折し緩やかな坂を上がって行くと2001年にオープンした「武相荘」がある。武相荘は白洲次郎・政子夫妻が住んでいた旧邸である。武蔵と相模の境にあった地に因んで、また次郎独特の一ひねりの気持ちで「無愛想」をもじり「武相荘」と名付けたようだ。茅葺屋根の母屋・納屋が公開されており、夫妻の書斎や、家具や持ち物、写真、農機具が展示されている。白洲次郎は終戦直後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)支配下の日本の吉田茂の側近として活躍。昭和26年サンフランシスコ条約講和会議全権団顧問として随行もした。また白洲政子は作家・随筆家として知られている。受付から長屋門をくぐった敷地内は樹木や竹林、草花に静寂のベールに包まれたこの空間は別世界の感がある。(1009)Buaiso0328 Buaiso0001 Buaiso0329 Buaiso0330 Buaiso0333 Buaiso0341 Buaiso0338

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